AAFC

バレエ名作鑑賞会 第2回  
ストラヴィンスキー「火の鳥」、「ペトルーシュカ」他

2017年5月14日

分科会資料
担当 :塚田 繁

 

① 本日のプログラム

1 バレエ「火の鳥」 音楽ストラヴィンスキー、マリインスキー劇場公演 約45分
2 バレエ「ペトルーシュカ」音楽ストラヴィンスキー、リエパ制作
3 オペラ「イーゴリ公」より、 又はバレエ「シェエラザード」より

ロシアの興行師セルゲイ・ディアギレフが、ロシア美術のヨーロッパへの紹介活動の後パリでロシア音楽、その後ロシア人によるバレエを公演することになり、新作の導入に積極であったディアギレフが、オリジナルバレエとして1910年及び1911年にパリで初演されたもの。

② バレエ・リュス

ディアギレフが組織したバレエ団は当初はペテルブルグとモスクワの劇場からの選抜ダンサーによる臨時編成であったが、1911年頃から恒常的に契約するようになった。
全体の運営はディアギレフがその仲間と相談し行い、音楽と美術は仲間のものの他ディアギレフが目を付けた作曲家、画家に依頼された。
振付は当初フォーキン、次いでニジンスキー、マシーン、ニジンスカ等が担当した。何度も経済的な困難に陥ったが、1929年ディアギレフが死去するまで存続した。

③ ディアギレフ

ロシアの地方貴族出身、サンクトペテルブルク大学に学びのちのバレエ・リュスの仲間たちと交流した。
作曲家を目指したがリムスキー・コルサコフに酷評され断念、前衛美術の紹介活動からはじめ、パリでロシア音楽コンサートを興行、次いでバレエを取り上げほぼ常設のバレエ団をもつにいたった。音楽、振付、美術、ダンサーそれぞれ才能ある人材を発掘し、「天才を見つける天才」と言われる。別紙年表参照。

④ ストラヴィンスキー

20世紀を代表する作曲家の一人。1882年サンクトペテルブルク近郊で生まれる。
ディアギレフの目に留まり「火の鳥」で欧州に知られるところになった。その後「ペトルーシュカ」「春の祭典」と続き、バレエ・リュスには「鶯の歌」「プルチネルラ」「狐」「結婚」等を作曲。
時代により次々と作風を変えた。1959年来日、1971年死去(88歳)。

⑤ 火の鳥の初演

1909年のパリ公演が大成功に終わり、ディアギレフは翌年も新作を中心とした公演を計画し、ロシアの民話から火の鳥の物語をバレエ化することにした。
台本はフォーキンがまとめ、音楽は当初大御所リャードフに依頼することにしていたが、リャードフは遅筆で着手せず、ディアギレフが音楽院のコンサートで注目していたストラヴィンスキーに任せることにした。

音楽は1910年の5月に最終的に完成した。振付は前年の多くの演目で振付をし、高く評価されていたフォーキンが担当した。
「フォーキンはちょうどバレエの中程から稽古を始めた。ストラヴィンスキーが悪鬼の騒ぎと呼んでいた個所だ。最初の数小節を聞いただけで踊り手たちは慌てた。メロディーがないし、マリインスキー・バレエで踊っていた音楽とはまったく違う。音楽とはいえないと言う踊り手もいた。ストラヴィンスキーはいつも稽古に付き合って、テンポとリズムを指示した。ときにはそのパッセージを自分で弾いて聞かせもした。踊り手に言わせると、『ピアノが壊れるかと思った』そうだ。ストラヴィンスキーはリズムに興奮してくると、大音響でピアノを叩き、自分でも声で音をなぞり、指がどのキーに落ちようと気にかけなかった。ストラヴィンスキーの暴発は皆に伝染した。フォーキンの振付のあと押しもした。この非凡な音楽は、フォーキンが独創に満ちた踊りをつくる助けともなった。ユニークな踊りは喜びでもあり楽しみでもあった。この群舞が場の空気を変えて、踊りはまもなく完成した。」 (グリゴリエフ「ディアギレフバレエ年代記」)

舞台美術はマリインスキー劇場で実績のあるゴロヴィーンが担当したが、衣装についてはバクストが作った。初演は1910年6月25日パリ・オペラ座で行われ、大成功となった。

⑥ 火の鳥の内容

第1場
・導入
・カスチェイの魔法にかかった庭
・火の鳥の登場、これを追ってイワン王子
・火の鳥の踊り
・イワン王子に捕えられた火の鳥
・火の鳥の嘆願

火の鳥は自分の体から美しい1枚の羽根を抜きとるとそれを王子に渡し「もしあなたが危険にさらされた時には、この羽根があなたを助けてくれるでしょう」という。王子は火の鳥の言葉を信じて彼女を放してやり、火の鳥は嬉しそうに飛び去って行く。

・魔法にかけられた13人の乙女たちの登場
・黄金のリンゴとたわむれる乙女(スケルツォ)
・イワン王子の不意の出現
・王女たちのロンド
・夜明け

彼女らの自由な時間の切れたことを意味し、乙女たちは悲しそうに城に戻り、王子は悄然とその場にたたずむ。しかし救出しようと決心した王子は城内に突入する。

・怪しげな騒ぎ、怪物ども(城の番人)登場、イワン王子捕らえられる
・不死の魔王カスチェイの登場、火の鳥の出現

王子はカスチェイの裁きを受けることになるが、王子の傲然たる態度に激怒し、王子を魔法にかけて石にしてしまおうと、呪文を唱え始める。この時王子は火の鳥の羽根のことを思い出し、呪文を唱え終らないうちに羽根を取り出して、火の鳥の助けを求める。火の鳥が飛んできて、カスチェイや怪物どもに魔法をかける。

・カスチェイら一党の凶悪な踊り

火の鳥が不思議な踊りを始めると、一党がグロテスクに踊り始める。やがて踊り疲れ、バタバタと倒れてしまう。

・火の鳥の子守歌(カスチェイの目覚め、カスチェイの死、深い闇)

火の鳥は子守歌を歌いながらカスチェイの魂が入った卵のある場所を王子に教え、王子はその卵を持ってくる。その時カスチェイは身の危険を感じて眼を覚ます。卵を手にした王子を見て躍りかかろうとするが、王子はすばやく卵を地面に叩きつけて割ってしまう。その瞬間、カスチェイは死に魔法は解ける。

第2場
・カスチェイの城と魔法の消滅、石にされていた騎士たちの復活、大円団

上演内容

火の鳥:エカテリーナ・コンダ―ロヴァ
イワン王子:イリヤ・クズネツォフ
美しい王女:マリアンナ・パヴロヴァ
不死カスチェイ:ウラジミール・ポノマレフ
その他マリインスキー・バレエ団員
振付:フォーキン(復元:イザベル・フォーキン、アンドリス・リエパ)
装置:ゴロヴィーン 衣装:バクスト(復元:アンナ&アナトリ・ネズニィ)
ヴァレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場管弦楽団 2008年6月公演

主なCD

ドホナーニ指揮ウィーンフィル(Dec)、ラトル指揮バーミンガム市響(EMI)、
ブーレーズ指揮シカゴ交響楽団(DG)、ロト指揮レ・シエクル(Actes Sud)

⑦ 「ペトルーシカ」の初演

ストラヴィンスキーは火の鳥の成功後、「春の祭典」となる音楽の構想を持っていたが、その前に、ピアノと管弦楽のための小協奏曲に取り組んでいた。
これを聞いたディアギレフがバレエ音楽として完成させることを勧め、美術家のブノワと協力して台本を作成、音楽は1911年5月ローマで完成した。振付はフォーキンが担当したが、彼は他の新演目の振付で非常に忙しい中での取り組みとなった。

「フォーキンはすぐに仕事に取りかかり、始めるやいなやアイディアが沸き上がってくるようだった。稽古はどんどん進んだ。だが第三場のムーア人の部屋で躓いた。アイディアが尽きたようだ。どうしたらいいかわからなくなり、癇癪を起して楽譜を床に投げつけ、部屋を出ていった。しかし次の日、フォーキンは嬉しそうな様子で、あのくそムーアに“役割”を見つけたという。椰子の実を持って遊ぶということだった。少なくとも場面の前半は片が付いた。」(グリゴリエフ「ディアギレフバレエ年代記」)

「舞台稽古はいつもの通り問題は山積みだった。まずは音楽。リハーサル・ピアノとオーケストラで聴くのとでは音がまるで違う。踊り手はまごつくばかりだ。舞台は出演者でいっぱいなのに、真っ暗闇の中で舞台転換をしなくてはならない。…… ストラヴィンスキーとフォーキンは、音楽のテンポのことで常に言い争いが絶えない。踊り手は、舞台の上の祭りの飾りものが多すぎて、動く場所がないと文句を言う。…… これはいつもの舞台稽古の問題の域を超えている。だが、この混乱から奇跡のように秩序が生まれた。『ペトルーシカ』は大成功を収め、ロシア・バレエの栄光に貢献した。そしてディアギレフバレエ団が終末を迎えるまで、そのレパートリーに残った。」(同上)

⑧ 「ペトルーシカ」の内容

全体は4場からなり舞台は1830年頃のサンクトペテルブルクの広場。

第1場 謝肉祭の広場

大勢の群集で賑わっている。見世物小屋や屋台が立ち並び、農民、兵隊、ジプシー、貴婦人、ありとあらゆる階層の人が集まっている。
そこへ見世物小屋の親方が出てきて笛を吹き、人形劇を始める。中央が頬紅をつけたバレリーナ、右に風采の上がらないペトルーシュカ、左に強そうなムーア人。
ペトルーシュカはバレリーナに恋をしている。バレリーナはムーア人の方に惹かれているらしい。ペトルーシュカは嫉妬にかられてムーア人にとびかかる。親方が笛を止めると人形たちはくずれて動かなくなってしまう。

第2場 ペトルーシカの部屋

親方に閉じ込められたペトルーシカは、ひとりぼっちの寂しさ、悩み、バレリーナへの恋心、ムーア人への憎しみなどを説明する。
壁にかかった親方の肖像画を見て、親方が自分にいろいろな人間感情を抱かせたことを恨む。そこにバレリーナが入ってくると、ペトルーシカは大喜びで、自分の恋心を伝えようとするが、その不器用さでバレリーナは反応せず、立ち去られてしまう。絶望したペトルーシカは、しょせん自分は哀れな道化にすぎないとくやしがり、扉に体を打ちつけ泣き出してしまう。

第3場 ムーア人の部屋

ムーア人が椰子の実で遊んでいる。その実を食べたくなって三日月刀で割ろうとするが割れない。彼はパニックになって実の中に神様でもいるのかと思いひれ伏してしまう。
そこへバレリーナが入ってきて踊り始める。ムーア人も真似をして踊り、珍妙なパ・ド・ドゥになる。
ムーア人がバレリーナを膝にのせて口説き始めると、ペトルーシカが飛び込んできてムーア人を脅す。ムーア人は刀を振りかざして追いかけ、ペトルーシカは、逃げる。

第4場 謝肉祭の市場(夕方)

再び広場。日が暮れようとしている。雪も降り始めた。お祭り気分はいっそう高まり、群集の数も一段とふえてきた。
子守女の踊り、熊使いの踊り、行商人とジプシー女の踊り、馭者の踊りと盛り上がったところで突然踊りが中断され、ムーア人に追われたペトルーシカが飛び出してくる。
バレリーナが止めようとするが、ムーア人はあっと言う間に三日月刀の一撃でペトルーシカを倒してしまう。群集は倒れたペトルーシカの上にかがみこむ。
かけつけた親方は、横たわっているペトルーシカをそっと抱き上げて、それが単に操り人形にすぎないことを見せて群集をほっとさせる。安心した群集は三々五々立ち去る。
親方は人形のペトルーシュカを抱えて見世物小屋に運ぼうとしたが、その時見世物小屋の屋根の上にペトルーシュカの幽霊があらわれる。人形使いの親方は肝をつぶして逃げ出す。

上演内容

ペトルーシュカ:アンドリス・リエパ
バレリーナ:タチアナ・ベレツカヤ
ムーア人:ゲディミナス・タランダ
親方:セルゲイ・ぺツコフ  悪魔:ヴィタリ・ブルセンコ
振付:フォーキン
装置・衣装:ブノワ
アンドレイ・チスティアコフ指揮、ボリショイ劇場管弦楽団 1990年代初め収録

主なCD

バーンスタイン指揮NYフィル(Sony)、デュトワ指揮モントリオール(Dec)
ハイティンク指揮ベルリンフィル(Ph) 、ロト指揮レ・シエクル(Actes Sud)

⑨ 主な関係者

ミハイル・フォーキン:サンクトペテルブルグ出身のバレエダンサー、振付家。1880年生。
帝室バレエ学校卒、18歳で帝室バレエにデビュー。
22歳より指導員兼ねるが、25歳頃より振付も行い、パヴロワの為の「瀕死の白鳥」やニジンスキーを含めた「レ・シルフィード」が有名。
伝統にとらわれない自由な動きと衣装の改革を試みるが帝室バレエの上層部に認められず、1909年にディアギレフの招きでバレエリュスに参加、数多くの振付を残したが、1912年「ダフニスとクロエ」初演時ディアギレフと決裂、第一次大戦後北欧経由アメリカに移り、バレエ学校を開き、次いで自身のバレエ団を組織した。1942年没。

レオン・バクスト:白ロシア出身の画家、舞台美術家、衣装デザイナー。1866年生。ユダヤ系。パリで学んでいる頃から、ディアギレフとブノワが主宰する「芸術世界」のグループに参加。
バレエリュスの当初から舞台美術、衣装を担当する。特に1909年の「クレオパトラ」、1910年の「シェエラザード」の舞台美術でパリの観客を熱狂させた。
1922年ディアギレフと決裂、1924年没。

ワーツラフ・ニジンスキー:1890年キエフ生まれ。20世紀初めの最高の男性踊り手と言われている。
9歳で帝室バレエ学校に入学、17歳より帝室バレエに登場。
1909年にバレエ・リュスに参加(「アルミ―ドの館」、「クレオパトラ」等)。
1910年(「ジゼル」、「シェエラザード」等)、1911年(「薔薇の精」、「ペトルーシュカ」等)の公演で名声確立。
1912年より振付も行いモダン・ダンスの新しい方向性を示す。
1913年の「遊戯」「春の祭典」初演後、ディアギレフの参加しない南米公演中に、熱烈なファンであったハンガリーの伯爵令嬢ロモラ・デ・プロツキと結婚、激怒したディアギレフにより解雇された。
その後自分のバレエ団を組織する等したが成功せず、精神病となり1950年ロンドンで死去。

アレクサンドル・ブノワ:1870年生。フランス系芸術一家の生まれ。自身ロシア象徴主義絵画をリード、1901年マリインスキー劇場の舞台監督に就任。ディアギレフとは大学時代から親交がありバレエ・リュスの多くの公演の美術を担当。1960年パリで没。

参考文献 バックル:「ディアギレフ」、スヘイエン:「ディアギレフー芸術に捧げた生涯」、グリゴリエフ:「ディアギレフ・バレエ年代記」

参考映画 「ニジンスキー」(1980)、「シャネル アンド ストラヴィンスキー」(2009)

参考YouTube:Le spectre de la rose, Les Noces, Ballet Parade, Apollon Mussagete
Le sacre du printemps Bejart, Le sacre du printemps Pina Bausch

別紙資料はこちら

以上