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分科会 20世紀の音楽 第7回

20世紀のあらゆる作曲家に影響を及ぼしたといわれる
プロコフィエフ

2018年7月8日

分科会資料
担当 : 山本 一成

 

ストラビンスキー、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチは20世紀ロシア音楽のイメージを創り上げただけなく、世界の作曲家に影響を与えたと言われています。
同時代に活躍したわけですから、互いに知己でしたが、人生と性格は違っていたようです。

いずれの3人はリムスキー・コルサコフの弟子筋です。
前回まで4回ショシタコーヴィッチに回を費やしてしまいましたが、ここで他の2人も取り上げなければならなくなりました。今回はプロコフィエフを取り上げます。
話すことは多くありますが、ここで、簡単にその人生と性格を分類いたします。

ストラビンスキー :帝政ロシアの上流階級に育ち、歴史の大変革を泰ケしなかった。つまり1914年にロシアを離れ、1962年まで戻らなかった。帝政ロシア時代の人間で共産主義を嫌っていた。

プロコフィエフ :20世紀初頭の芸術。思想の充実期に、屈託のないのびのびとした楽天性はそれを反映している。 1918年から国外に暮らしとりわけフランスの影響を被った国際人だった。

ショスタコーヴィチ :ロシア革命、ソ連政権の樹立と価値観の激変期に育った生粋のソ連人。         

<演奏曲目>
1.交響曲 1番  全楽章                      14:03
   キタ・エンコ 指揮 ケルン・ギュルツエニヒ管弦楽団  CAPRICCIO  

モダンな作風で知られていたプロコフィエフが、この曲で一転して軽快で解り易く美しい作風を示したことは周囲を驚かせた。「もしもハイドンが今でも生きていたら書いたであろう作品」として作曲したので、「古典交響曲」と名付けた。大胆な転調など、プロコフィエフらしさはしっかりとある。初演は1918年4月21日にペトログラード(現サンクトペテルブルク)で作曲者の指揮によって行われた。

2.ピアノ協奏曲 3番 第3楽章                 9:00
   マルタ・アルゲリッチ (P) 
   クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルファーモニー管弦楽団(1967)グラモフォン 

初演当初は特に人気が出なかったが作曲者自身をはじめ、多くのピアニストによって盛んに演奏・録音が行われており、プロコフィエフの協奏曲の中では最も有名な作品の一つとなっている。
1922年にセルゲイ・クーセヴィツキーがパリ初演で本作を指揮し、華々しい称賛を得て、20世紀の代表的楽曲の一つに数えられるまでになっった。

3.組曲「ロメオとジュリエット」 第1、第2より         17:11
   ・少女ジュリエット
   ・モンターギュー家とキャピュレット家
   ・マドリガル
   ・フォークダンス 
   指揮 アンドリュー・モグレリア  ウクライナ国立交響楽団  

 イギリスの劇作家シェイクスピアによる悲劇『ロミオとジュリエット』に基づく。バレエ音楽からプロコフィエフ自身によって管弦楽組曲3つとピアノ独奏用組曲1つが作られている。

 バレエは当初、レニングラード・バレエ学校創立200年祭で上演される予定だったが、酷評されて契約を撤回された。そこでプロコフィエフは組曲を2つ作り、バレエの初演に先行して第1組曲を1936年にモスクワで、第2組曲を1937年にレニングラードで発表した。
 バレエはその後、1938年12月30日にチェコスロヴァキアの国立ブルノ劇場で、セムベロヴァ主演、プソタ振付により初演された。ブルノでの初演が成功を収めたことで、レニングラードのキーロフ劇場は態度を改め、1940年1月11日にラブロフスキーの演出・振付、ウィリアムスの美術、ファイエルの指揮、ガリーナ・ウラノワのジュリエット、セルゲーエフのロメオでソヴィエト初演が行われた。(ウイキペディアより抜粋)

4.ヴァイオリン協奏曲 2番 第2楽章                9:15             
   ヴィクトリア・ムローヴァ(Vn) パヴォ・ヤルヴィ指揮 
   フランクフルト放送交響楽団 (2012) ONYX

 1935年に作曲、同年12月1日にスペインのマドリードに於いて、フランスのヴァイオリニスト、ロベール・ソエタンのヴァイオリン独奏とエンリケ・アルボス指揮マドリード交響楽団によって初演された。
 ソエタンの後援者から、ソエタンに1年間の独占演奏権を与えることを条件に新たなヴァイオリン協奏曲を作ってほしい、と依頼された。
 プロコフィエフの作品としては、初期の大胆不敵な作品にくらべて伝統寄りになっており、この作曲家特有の乾いたグロテスクな表現は控えられている。そのためもあってかヤッシャ・ハイフェッツがこの作品をモノラル時代とステレオ時代に1度ずつ録音し、作品の知名度に貢献した。

5.組曲「キージェ中尉」                
   第1組曲 キージェの誕生                3:58
   第2組曲 ロマンス                     4:19
   第3組曲 キージェの結婚                2:36
   第4組曲 トロイカ                     2:46 
   第5組曲 キージェの埋葬                5:33
   シャルル・デュトワ指揮 モントリオール交響楽団   DECCA 

 1933年にベルゴスキノ映画製作場(現ベラルーシ・フィルム)からの依頼により、同名映画のための音楽を作曲したが、映画が公開された1934年に演奏会用の交響組曲を作った。単なる抜粋ではなく、主題の組み合わせや、オーケストレーションの変更を含むものであり、プロコフィエフ自身は映画音楽を作ることよりも苦労したと語っている。同年に初演された。
 映画は、ロシア皇帝パーヴェル1世のもとで起こった、実は存在しない「キージェ中尉」を巡る珍事件の数々を描いた、風刺的・喜劇的な内容のもの。ロシアの作家ユーリイ・トゥイニャーノフの同名小説(ただし、元々のタイトルは『キージェ少尉』に基づいているが、映画化に際してトゥイニャーノフ自身が脚色している。
 この映画の仕事と前後して、プロコフィエフは亡命生活を終えてロシアへの復帰を果たしている。(出典ウイキペディア)

6.組曲「3つのオレンジへの恋」より 行進曲            1:47

 1918年にソヴィエト政権が樹立したロシアから逃れ、アメリカへ亡命したプロコフィエフは、その途上で、イタリアの劇作家カルロ・ゴッツィの同名の童話によるオペラを構想する。
 ニューヨークに到着した後、台本の草稿を仕上げた。2年後の1921年12月30日にシカゴ歌劇場(オーディトリアム)で、プロコフィエフ自身の指揮によって行われ、大成功を収めた。
 これに続いて1925年3月14日にドイツのケルンにおけるヨーロッパ初演、1926年2月18日のレニングラード(現サンクトペテルブルク)におけるソ連初演がそれぞれ行われている。
 なおプロコフィエフは、レニングラードでの初演の舞台を絶賛し、「私の故国で、この作品が最も素晴らしく上演されたことはとても幸せです」と語っている。
                            (ウイキペディアより抄訳)

7.ピアノ協奏曲 1番 全楽章                  14:28
   ミシェル・ベロフ(P) クルト・マズア ライプツィヒ・ゲバントハウス管弦楽団 
   (1974)  ERATO

 サンクトペテルブルク音楽院在学中に構想された。長調という音階の選択、抒情的・歌謡的な旋律の排除とグロテスクな曲想への好み、驀進するリズムと打鍵中心のピアノ書法、曖昧な調性など、反民族主義的・反ロマン主義的性格が濃厚である。
 初期作品でありながら、本作は『トッカータ』作品11とともに、すでに成熟期のプロコフィエフの作風を予告するものとなりえている。また、続くバルトークらの20世紀のピアノ協奏曲の発想も先取りしている。
 1912年夏にモスクワにおいて作曲者のピアノ、コンスタンチン・サラジェフの指揮で初演され、作品は師の一人ニコライ・チェレプニンに献呈された。
 また、プロコフィエフは1914年5月18日に、音楽院の卒業試験において本作を自ら演奏し、アントン・ルビンシテイン賞を受賞している。(ウイキペディアより抜粋)

8.バレエ音楽「シンデレラ」より
   ・仙女のおばさんと府との精                   5:17
   ・舞踏会に行くシンデレラ                     2:56
   ・シンデレラのワルツ                       2:45
   ・真夜中                               2:00 

 バレエ音楽からプロコフィエフ自身によって、管弦楽組曲3つないし4つとピアノ独奏用組曲2つ、その他の編曲が作られている。
 1940年、『ロメオとジュリエット』の成功を受けてキーロフ劇場から作曲の依頼が行われたが、ドイツのソ連侵攻やオペラ『戦争と平和』の作曲によって作業は中断され、完成は1944年、初演は1945年までずれ込んだ。初演は成功し、1946年にプロコフィエフは交響曲第5番、ピアノソナタ第8番などと併せてスターリン賞を受けた。
 『ロメオとジュリエット』同様に、複数のライトモティーフを使用した場面描写や登場人物の性格描写が行われている。一方、『ロメオとジュリエット』と比較して劇的な要素の少ない脚本ということもあって、プロコフィエフは「踊りの要素で満たされた」、クラシック・バレエの伝統を意識した作曲を行った。ゆえに抒情的なナンバーが多く、パ・ド・ドゥ、ヴァリアシオンが多く配置され、またガヴォット、パスピエ、ブレーなどの古風な舞曲を複数含んでいる。
(ウィキペディアより抜粋)

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早すぎた天才が抱えた権威と束縛への葛藤
(プロコフィエフはこんなひと)

セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフ(1891~1953)
ロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者。主な作品に「ピアノ協奏曲第3番」、「交響曲第5番」、バレエ音楽『ロメオとジュリエット』などがある。
20世紀ロシアを代表する作曲家セルゲイ・プロコフィエフ。今の日本でもっとも知られた曲といえば、バレエ音楽『ロメオとジュリエット』に登場する「騎士たちの踊り」ということになるだろうか。携帯電話会社のCMやテレビドラマ「のだめカンタービレ」に使用されたことをきっかけに、一躍有名になった。
プロコフィエフは幼少期から神童ぶりを発揮し、大作曲家になるべくしてなった天才である。9歳で早くもオペラを作曲し、家庭内で初演。13歳でサンクトペテルブルグ音楽院の入試試験を受けたときは大騒ぎになった。プロコフィエフ少年は「4つのオペラ、2つのソナタ、交響曲とたくさんのピアノ曲」の楽譜を大きなフォルダーにずしりと携えて試験場にやってきた。その早熟ぶりはモーツァルトを思わせたことだろう。試験官長の大作曲家リムスキー=コルサコフは「これが、わたしが心から願っていた生徒だ!」と叫んだ。
しかし音楽院では保守的な教育に対して、プロコフィエフは失望を味わった。革新的な若者が、旧世代の大家たちをとまどわせるのはいつものこと。入試試験で熱狂したリムスキー=コルサコフも、入学後のプロコフィエフを「才能はあるが未熟」と断じた。彼の音楽が持つ痛烈なアイロニーとユーモア、乾いた抒情とグロテスクで暴力的なモダニズムといった特徴は、批評家の意見も二分させた。野心作ピアノ協奏曲第2番を発表して騒動になると、地元新聞はその様子をコミカルに描いた。「舞台にはペテルブルグの学生らしき若者があらわれた。セルゲイ・プロコフィエフだ。ピアノの前に座り、鍵盤のほこりを払っているのか、もしくは鋭くドライなタッチでめちゃめちゃに叩いているのか、どちらかであった。聴衆はどう判断すべきか、さっぱりわからなかった……」。
ロシア革命後、プロコフィエフは祖国を離れ、主にアメリカやフランスで活動した。しかし、彼はラフマニノフやストラヴィンスキーらのように、そのまま西欧で生涯を送るという決断を下さなかった。郷愁からか、やがて家族とともにソ連への帰国を果たす。その後、ソ連内の音楽団体はすべて政府に統制されることになり、共産党中央委員会が作曲家たちに作曲の指針を示すことになる。創作の自由は奪われ、当局の意図に合致した作品を書くことを求められることになった。
もし、彼がそのまま西欧に留まっていれば、いったいどんな曲を書いたことだろうか?
(MUSIC/USEN。.COMより)

以上   

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