AAFC

分科会 20世紀の音楽 第8回

ストラヴィンスキー

2018年10月7日

分科会資料
担当 : 山本 一成

 

ストラヴィンスキー  (1882-1971)

初期の3篇のバレエ音楽(『火の鳥』、『ペトルーシュカ』、『春の祭典』)で知られるロシアの作曲家。
20世紀を代表する作曲家の1人として知られ、20世紀の芸術に広く影響を及ぼした音楽家の1人である。20世紀音楽を語るうえで、避けて通れない作曲家。
今回はその代表的な作品「春の祭典」「火の鳥」のその振り付けに焦点をあててご紹介します。

1.映画「シャネルとストラヴィンスキー」冒頭のスキャンダル場面 ≒20:00
       第62回カンヌ国際映画祭クロージング作品

ストーリー
1913年のパリで、ストラヴィンスキー(マッツ・ミケルセン)の新作である春の祭典が初日を迎える。だが、観客はそのあまりにも斬新な内容についていけず、激しいブーイングが起きる。その7年後、デザイナーとして成功したシャネル(アナ・ムグラリス)は、ストラヴィンキーの才能にほれ込み、自分の別荘に彼とその家族を滞在させる。 

*参考:BBC ドキュメンタリー・ドラマ「Riot at the Rite」
https://www.youtube.com/watch?v=JcZ7lfdhVQw

2.バレエ「春の祭典」全曲 初演雄ニジンスキーの振り付け    20:00
    
(初演 1913年5月29日 シャンゼリゼ劇場) 

  マリインスキー劇場 ニジンスキー振付(ホドソン復元)版 
  ゲルギエフ指揮 マリインスキーオーケストラ&バレエ団(トップダンサー)
                           ブルーレイ版 BelAir2008年版

1913年5月29日に初演されたのと同じ振付けによるバレエ「春の祭典」の映像。
ディアギレフ率いるバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)による初演で、会場はシャンゼリゼ劇場、初演指揮者はモントゥーで、当時けが人も出る程の大騒動となったいわくつきの舞台です。

振付を担当したのは、ディアギレフの秘蔵っ子で、1909年にヴェルサイユで素晴しいダンスを披露して一躍フランス中の有名人となったニジンスキー。彼は振り付けや指導の経験がほとんどないにも関わらず振付を担当しました。
冒頭、ダンサーたちが足を内側に曲げて頭を下げて足をふみならすという動きは当時のバレエ界ではありえないものでしたし、ニジンスキーの複雑な振付のおかげで、リハーサルに膨大な時間を要しました。
様々な困難と混乱を経て迎えた初日の舞台を観た観客もまた、大混乱に陥りましたが、これこそが20世紀バレエの幕開けとなったのです。

この「春の祭典」はあまりに前衛的だったため、8回公演されたあと、演目レパートリーから外されるという憂き目をみました。ニジンスキーは振付を舞踊譜に残しておらず、「春の祭典」は一度再演の機会はあったものの、またすぐ封印されていました。ここに収められた振付は、初演から実に70年経った1983年に、二人の舞踊研究家(ミリセント・ハドソン、ケネス・アーチャー)が様々な資料を検討して再構築した振付によるもの。マリインスキー劇場の誇るトップダンサーたちが、当代一のカリスマ指揮者、ゲルギエフ指揮による音楽で踊ります。(キングインターナショナル)

ニジンスキーは、驚異的な脚力による『まるで空中で静止したような』跳躍、中性的な身のこなしなどにより伝説となった。

3.バレエ「春の祭典」全曲 ベジャールの振り付け    20:00
  ベジャール・バレエ・ローザンヌによる本家本元、迫真の映像!!

   指揮者、 交響楽団 不明
   2012年11月アントワープ市立劇場、ベルギー

ベジャールはストラヴィンスキーの描いたロシアの神聖な民俗儀礼のストーリーから大胆に離れ、野性的で官能的な躍動する肉体の美を生々しく描いた。その革新的かつ独創的な『春の祭典』は圧倒的な支持を集め、一躍ベジャールの名を世界に知らしめる。
20世紀のダンスシーンに大きな衝撃を与えたこの作品は現在もなお衰えることなく、人々に衝撃を与え続けている。(新書館)

ベジャール亡き後、その後継者ジル・ロマンのもと、バレエ団はベジャールの志を受け継ぎ、彼のオリジナル作品を上演し続けています。
ベジャール振付の『春の祭典』は映像化が少なく、しかも本家本元であるベジャール・バレエ・ローザンヌによる『春の祭典』は、バレエ・ファン必見の映像です。また、この収録作品には日本人バレエ・ダンサーの那須野圭右が出演しています。才能溢れる彼らの踊りからも目が離せません!(販売元情報)

4.バレエ「火の鳥」全曲 フォーキンスによる振り付け

  マリインスキー劇場 
  ゲルギエフ指揮 マリインスキーオーケストラ&バレエ団(トップダンサー)
  ブルーレイ版 BelAir2008年版

セルゲイ・ディアギレフの依頼によって作曲された。ディアギレフは1910年のシーズン向けの新作として、この題材によるバレエの上演を思いついた。
最初ニコライ・チェレプニンが作曲を担当したが、不明な理由によって手を引いた。

『魔法にかけられた王国』作品39(1912年出版)の一部に、この時にチェレプニンが作曲した音楽が含まれる。ついでアナトーリ・リャードフに作曲を依頼したものの、リャードフの性格もあって作品が出来上がることはなかった。リャードフの態度に業を煮やしたディアギレフは、一人の若手作曲家、すなわちストラヴィンスキーのことを思い出した。

ディアギレフは、初期作『花火』初演に立ち会って以来の仲だったストラヴィンスキーに作曲を依頼した上で、ミハイル・フォーキンにストラヴィンスキーと相談しながら台本を作成するよう指示した。フォーキンは指示通りストラヴィンスキーと相談しつつ台本を仕上げ、ほどなく並行して作曲していたストラヴィンスキーも脱稿した。依頼を受けてから半年あまりであった。

初演は1910年6月25日にパリ・オペラ座にて、ガブリエル・ピエルネの指揮により行われた。

・ミハイル・フォーキン

1880年、サンクトペテルブルクで生まれた。1898年、サンクトペテルブルクの帝室舞踏学校卒業と同時にマリインスキー劇場と契約。
1907年にアンナ・パヴロワのために振り付けた「瀕死の白鳥」は特に有名である。

1909年、セルゲイ・ディアギレフのバレエ・リュスの結成に参加、バレエ・リュス初期の傑作を振り付けて大成功をおさめた。しかし、1912年、ディアギレフと決裂。1912年にバレエ・リュスを脱退した。

ディアギレフがニジンスキーを解雇したために生じた穴を埋めるため、1914年、一時的にバレエ・リュスに復帰するも、大ヒットとはならなかった。
その後、ロシア、北欧でバレエ教師、ダンサーとして活動した後、1920年、米国に渡り、以降ニューヨークに定住。1922年、「フォーキン・バレエ」を結成。

1932年、米国に帰化、教師として後進の教育に関わりながら振付もした。生涯で70を超える作品の振り付けを行った。今なお世界のトップクラスのバレエ団で用いられているものも多い。

ストラヴィンスキー バレエ「春の祭典」  作曲の経緯

1910年、ストラヴィンスキーは、ペテルブルクで『火の鳥』の仕上げを行っていた際に見た幻影(“輪になって座った長老たちが死ぬまで踊る若い娘を見守る異教の儀式”)から新しいバレエを着想し、美術家ニコライ・レーリヒに協力を求めた。
1911年9月末にローザンヌのストラヴィンスキーを訪問したディアギレフは、そこで聞いた作曲途中の『ペトルーシュカ』を気に入り、これを発展させてバレエにすることにしたため、『春の祭典』は一時棚上げとなった。

1911年6月に『ペトルーシュカ』が上演された後、『春の祭典』の創作が本格的に開始された。
ロシアに帰国していたストラヴィンスキーはレーリヒを訪ねて具体的な筋書きを決定した。同じ頃に「春のきざし」から始められた作曲は同年冬、スイスのクレーランスで集中的に作曲が進められた結果、1912年1月にはオーケストレーションを除き曲が完成した。
ストラヴィンスキーはこの年の春に演目として上演されることを希望したが、ディアギレフはこれを翌年に延期するとともに、大規模な管弦楽のための作品にするよう要望した。その後、モントルーでオーケストレーションが進められ、1913年に完成した。

1912年春頃、ディアギレフはそれまでのバレエ・リュスの振付を担当していたミハイル・フォーキンにかわり、天才ダンサー、ヴァーツラフ・ニジンスキーをメインの振付師にする決意を固めた。すでにニジンスキーは『牧神の午後』の振付を担当していたが、作品が公開されていない段階であり、その能力は未知数であった。

ニジンスキーのダンサーとしての才能は賞賛しながらも、振付師としての能力には不安を抱いていたストラヴィンスキーは、実はニジンスキーが音楽に関して全く知識を持ち合わせていないことに愕然とし、リズム、小節、音符の長さといった、ごく初歩的な音楽の基礎を教えることから始め、毎回音楽と振付を同調させるのに苦労した。

不安になったディアギレフはダルクローズの弟子ミリアム・ランベルク(マリー・ランベール)を振付助手として雇い入れ、ダルクローズのリトミックを『春の祭典』の振付に活かそうとしたが、ダンサーは疲労困憊しており、彼女のレッスンに参加するものはほとんどいなかった。

ニジンスキーは1913年の公演でドビュッシーの『遊戯』と『春の祭典』の2作品の振付を担当したが、ストラヴィンスキーによれば、それはニジンスキーにとって「能力以上の重荷」であった。振付及び指導の経験がほとんど無く、自分の意図を伝えることが不得手なニジンスキーはしょっちゅう癇癪を起こし、稽古は120回にも及んだ。

しかも、主役である生贄の乙女に予定されていたニジンスキーの妹ブロニスラヴァ・ニジンスカが妊娠してしまったため、急遽マリヤ・ピルツ(Maria Piltz)が代役となった。
ランベルクによれば、ピルツに対し、ニジンスキー自らが踊って見せた生贄の乙女の見本は実にすばらしく、それに比べて初演でのピルツの踊りは、ニジンスキーの「みすぼらしいコピー」に過ぎなかったという

このような苦難の結果できあがった舞台は、レーリヒによる地味な衣装のダンサーの一群が、ニジンスキーの振付によって舞台を走り回り、内股で腰を曲げ、首をかしげたまま回ったり飛び上がるという、従来のバレエとは全く違うものであった。(ウィキペディア 抜粋)

 

バレエ「春の祭典」 その革新性についての対談

お話:
許 光俊(音楽評論家、慶應義塾大学教授)
守山実花(バレエ評論家)

《まずはイントロ《春の祭典》について》
1913年、パリのシャンゼリゼ劇場において初演された《春の祭典》は、そのストラヴィンスキーの最高傑作の一つであり、ディアギレフが仕掛けた「事件」の中でも最大級のものであると現代では評価されています。

けれども本作冒頭に登場するそれは、チープな舞台背景に加えて、振り付けも余りに前衛的でした。まるでイヌイットの呪いというかもののけ姫が出てきそうな面妖さなのです。
加えて、ひっきりなしに拍子の変わる複雑なリズム。およそ人の想像するバレエの美からはかけ離れた動き。ダンサーたちが内輪に回した両足でうなだれて立ち、けいれんするように細かく全身を震わせる様子は、本編にも見られるとおり、初日の上演途中からのブーイングや野次、さらには暴動にまで発展する恐れが出てきて、警官が出動するほどでした。

その反面、ブラボーの交錯も巻き起こしたが、これはプロデューサーのディアギレフが招き入れたサクラも、多数含まれていたようです。
こんな前衛的で過激な内容にもかかわらず、ストラヴィンスキーの才能を見いだしたディアギレフの眼力には敬服します。

《春の祭典》の革新性
許:彼は20代に《火の鳥》で一躍有名になったのですが、これは確かにすばらしい名曲です。オーケストラが実に色彩豊かだし、ドラマティックな振幅も広いし、濃厚な森の匂いがする。神秘性もある。天才が、自分にはここまでできるという自覚もないままに、すごいものを創ってしまったという感じがします。その初々しさも魅力です。それに比べると、《春の祭典》はわずか3年後の作曲なのですけれど、自信満々というか、風格があるというか、こういうことをやってやろうというしたたかな戦略がわかる曲です。原色の絵の具をぶちまけたようなシーンであっても、精密に計算されています。2013年は、ちょうど作曲・初演から100年目にあたります。
《春の祭典》では、たとえばチャイコフスキーや《火の鳥》みたいな、男性主人公、女性主人公というものが存在しませんね。もっと集団的です。そもそも、登場人物にイワンとかペトルーシュカといった名前がつけられていませんね。

守山:集団が生贄の乙女を選び、乙女は踊り続け死ぬ、異教徒の祭儀です。《火の鳥》や《ペトルーシュカ》では、鳥なり人形なりをダンサーが表現する点において、バレエの伝統的なテーマとの関係が完全に断ち切れたわけではありませんでした。振付の面でもそうです。
《春の祭典》はそこからぐっと大きく前に進んだ感じがします。初演の振付はニジンスキーに任されますが、彼の振りはダンサーにとっても観客にとっても、あまりに型破りなものでした。

許:《春の祭典》という日本語だと、何だか明るい春のお祭りが連想されてしまうのですが、実際にはこれは古代人の残酷な儀式なのですね。古代においては、近代のような個々の人間という考えが確立されていませんから、登場人物には名前もない。《春の祭典》の本当の主人公は、大地というか、生命というか、個々の人間を超えたものとも感じられます。宇宙を動かす無目的なエネルギーとも。
バレエの伝統的な動きとは、あくまで優雅な範囲にとどまりながら、喜怒哀楽を表現しているのですよね? 《春の祭典》の、そうした常識を越えた踊りや音楽は、のちのさまざまなダンスというか身体表現、たとえば暗黒舞踏のようなものまで導き出すような、一種の芽生えのようなものと考えてもよいのでしょうか?

守山:ニジンスキーの版では、ダンサーは首を曲げ、猫背気味の姿勢をとり、足は内股です。足を踏み鳴らす動きも多い。伝統的なバレエの基本姿勢とはまるで異なります。天上方向、つまり理想化された世界を目指す19世紀のバレエと、《春の祭典》の内側へ、下方へと向かう意識は正反対です。バレエの様式美を破壊する動きが、「宇宙を動かす無目的なエネルギー」を湧き上がらせています。未来のダンス、身体表現を予告するものだったと言えます。 この版では、犠牲となる乙女は、生贄として選ばれたあと、約8分間はただ立ったままです。その後、急に飛び上がって約7分間で130回のジャンプを続けます。着地するたびに足で床を踏みしめ、大地と一つになっていくようにも見える。絶望や死への畏怖だけでなく、神、大地のエネルギーと一体になることへの恍惚までもを表現したのではないかと思えます。

許:それは確かに100年前としては常識を越えていたでしょうね。「東京・春・音楽祭」では、戦後のバレエ界を代表する重要人物のひとりと思われるベジャールの振付が踊られるのですけれど、その特徴、魅力は何でしょう?

守山:無数の男女の体の内から湧き上がっていく衝動、熱が肉体を突き破り爆発する様として、音楽を視覚的に表現しています。音楽が持つ宇宙的エネルギーを、原初的な人間の欲望や獣性と重ねたのです。春、欲望が目覚め、燃え立ち、新たな生命が生まれる祭典としたわけです。男女の生贄が選ばれて、肉体を重ねるのですが、ベジャールは発情期の鹿、交尾する鹿を描いた映画にインスピレーションを得ています。鹿の動きがストラヴィンスキーのリズムにピッタリだというのです。最後にはすべてのダンサーがカップルとなり、向かいあい、あのリズムにはじかれるように身体をぶつけ続けます。腰でリズムが刻まれます。衣装はシンプルなボディタイツ、装置もありません。「古代の異教の人々」というような枠もない。舞台にいるのはただの男と女です。

許:なるほど、それはずいぶん刺激的ですね。もともと舞台設定や筋書きよりも、ストラヴィンスキーの音楽が持つ根源的な力や特徴に霊感を得た振付と言ってよいのでしょうね。

守山:肉体そのものの力、躍動感、官能性を前面に押し出して、渦を巻きながら増幅していくエネルギーを視覚化しています。

抜粋 

以上   

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